厚生省前事務次官の当事者能力と、老人病院 vs. 在宅

下記に引用するのはm3って医師用のサイトに載っていた某・前厚生労働省事務次官のご高説であります。下っ端小役人のその場しのぎでファビョり発言ではなく、仮にも事務次官経験者のです。

総合医が献身的に大活躍して幸せな在宅医療と在宅での大往生」・・素晴らしいですね、絵に描いたようです。問題は絵に描いた餅をどうやって食えるものにするかですけども。


「入院以外」だったら文字通りの自宅でなくても良いって・・・老健の入所待ち時間とか役所に統計が無いとは言わせないし、それから「家で看取り」するには自ずとある程度広い家+マンパワー要るはずだけど核家族率」とか「老人世帯率」とか「平均住宅面積」とかデータとか一瞥くらいはした上で言うてんのかね?

だいたい病院で死に行く患者を「在宅」や「ホーム」に追い出してたらその分の「医療費」が節約出来るとか無理やりショートカットしてる気もしますが、その損得勘定がどうなのか?もう少し説得力のある虚心坦懐なシミレーションを呈示すべきと思うのですよね。(開業医を貧乏にしてナンボくらい医療費の節約になるか?のシミレーションもねw)


「在宅で過ごす」と「社会的入院」がどっちが安いか?、結局家庭内労働という形でコストを一般人に転嫁しても、本体の医療費がそれほど節約出来るかも疑問。

そりゃあワーキングプア時代でそれも「年収300万」ならまだしも「年収120万」であるならば、「家庭内に介護で拘束されるよりはそれはプロに任せて外で労働した方が経済的に合理的」という説が成り立たなくなるという非情な現実があるかもしれない。他方で、日本の金融資産の大部分を死蔵してる年寄りがそれをますます死ぬまで手放さない…→景気に悪い。

ま、それは置いておいて、どっちがより税金を食うか? 普通に考えて廊下を巡回していくよりは車出して訪問看護やら往診やらする方がよっぽど効率悪い(ガソリン消費して移動してる時間は全く非生産的)、あまつさえ急変したら三次救急に運ぶんではなにやってるかわからん。


かねがね思っておるのですけど・・・「人生の最後ってそんなに重要?」から問い直してもよいと思うのですよね。オペラやバレエや芝居だって最終シーンは便宜上あるだけでどうでもよいってものたくさんありますし。「老人病院の大部屋でフェードアウト」ってのを「在宅で(どうせ少人数の疲れきった)縁者に看取られる」にアップグレードするのってほんまに勝負所ですかい? …エコノミークラスでずっーと旅してきて空港から自宅に戻るときだけリムジン(どうせオンボロ)みたいなリソースの配分もいかがなものかと、。

専門医信仰」からの脱却が必要-東大高齢社会総合研究機構(前厚生労働省事務次官)・辻哲夫氏に聞く◆Vol.1


――最近、総合医の必要性を指摘されています。


 専門医を目指す医師が多く、患者サイドも「専門医信仰」と言っていい状況にあります。しかし、これでは現在、そして今後の日本の医療ニーズとはミスマッチが生じ、医療の混乱を招きます。医師不足の問題も、この点を解決しない限り、構造的には解消しないのではないでしょうか。


 ――「医療ニーズとのミスマッチ」について、もう少し詳しくお聞かせください。


 まず今後の医療ニーズがどう変化するかですが、日本では世界各国が経験したことがない人口の高齢化が進みます。75 歳以上人口は今後20年間で倍増し、今の約1100万人から2030年には2200万人強になります。スウェーデンの総人口が1000万人弱ですから、この数字がいかに大きいかが分かるでしょう。さらに100歳以上に限って見ても、現在は2万人台ですが、20年後には20万人以上、40年後には60万人強になると見込まれます。


 もう一つ、重要なデータを挙げると、かつて昭和40年前後の死亡者数は年間80万人ぐらいで、しばらくはそのまま推移していました。ところが2000年ごろに100万人を超え、今は約110万人、ピーク時の2040年頃には年間死亡者数は170万人弱まで増加します。その内訳が問題で、昭和40年当時、死亡者数のうち後期高齢者は3分の1程度でした。ところが、現在は3人に2人、20年後は4人に3人、以降ももう少し増えます。


 慢性疾患あるいは生活習慣病に起因する死亡が増加し、人間は自分の臓器が弱って死んでいく。つまり、虚弱な時を経て死んでいく人が増えるわけです。


 昭和40年頃は、「死と戦う」のが医療の基本でした。いわば臓器別の医療が非常に進展しました。しかし、今後は臓器別の医療も非常に重要ですが、いかに幸せな時を経て死を迎えるか、それを支える医療が必要になってきます。しかし、急性期の治療が必要な時期が終わった後の医療、いかにその人の生活の質を守るかという医療は果たして確立されているでしょうか。現状では必ずしも十分ではないと思います。


 ――ここで言う慢性疾患には、がんも含まれると。


 含めていいと思います。がんの場合はターミナルの期間が短いという特徴はありますが、生活を支える医療が必要になってくることには変わりはありません。


 ――「生活を支える医療」とは、具体的には何をイメージされているのでしょうか。


  感染症など急性疾患が中心の時代は、病院で治療して治れば家に戻れる、そして従来の生活に戻ることができました。


 しかし、高齢者の場合は体力が落ちているので、自分で歩いて入院してきた患者が、臓器の治療には成功しても、場合によっては寝たきりになってしまうこともあります。その結果、その患者、さらには家族の生活の質は大きく低下します。家庭そのものも疲弊していく、という構図です。在宅で生活したくてもできず、病院や施設で大部屋に入る。その施設のプログラムにしたがって生活をする。入院・入所している限りは「病人」であり、それはいわば仮の姿で、それが長く続くのです。その生活は果たして幸せなのでしょうか。「最後はその人らしくなく、目もうつろだった」といった死に方、入院という形でどこかの時点から社会から消えていくような人生は、決して幸せとは言えません。


 そうではなく、できる限り自立した生活を目指し、虚弱になっても在宅でその人らしい生活をする。その人らしく老い、生を全うして、死んでいく。その人を「よくがんばったね」と見送ることができる社会、自分たちもこうした最期を迎えることができると考える社会。こうした社会を作らないと、超高齢社会の日本は続かないと思うのです。その社会においては、急性期だけではなく回復期のリハビリも行い、極力その人も生活能力を回復させるための医療が必要です。在宅に戻った後は、その人の生活を総合的に診て、必要な場合には専門医に紹介する。そして、入院治療が必要なときには紹介し、退院したらまた在宅で診る。自分で自分の生活を続ける、自分らしく生きることが一番の幸せであり、そのための医療が「生活を支える医療」です。


 このような総合医系の医療ニーズが激増しているにもかかわらず、「魅力がない」ということで、老年科や総合診療科といった分野が伸びていません。


 その結果、現実に何が起こっているか。日本では8割強は病院で亡くなっています。戦後は1割強にすぎませんでした。病院は、あくまで治療のための管理された場であり、生活者として人生を終える場ではありません。こうした状態で先ほどのような人口の高齢化がさらに進み、死亡者数が増えたら日本はどうなるでしょうか。


 ――「生活を支える医療」の場は病院ではなく、在宅であると。


 日本の人口は米国の半分以下ですが、病床数は米国の約2倍。日本はベッド数が多く、もはやベッドを増やす選択肢はあり得ません。2006年に成立した医療改革関連法案で、2012年度に介護療養病床を廃止する方針が打ち出されましたが、在宅へという方向性を国が決意したわけです。あとでまた触れますが、ここで言う在宅とは自宅だけではありません。


 今後は、医療の機能分化と連携を進め、生活を支える方向に変えていく必要があるわけです。その結果、「病院は、より病院らしく」、急性期の病院はレベルの高い医療を的確に行うなど、それぞれの機能をしっかり果たしながら連携して、患者の生活能力をできる限り良い状態にすることが可能になります。そのような意味で専門医も、臓器別の治療も非常に大事なのは当然のことで、それは今後も変わりません。


 ――家で生活をして、家で死を迎えたいと思っても、現実にはできない理由をどうお考えですか。


 一つには、「家族に迷惑をかけるから」という高齢者の思い。もう一つは医療上の不安ではないでしょうか。前者については、介護保険で居住系サービスを含め相当システムができ上がりつつあります。 


 課題は後者です。「医療の場は病院しかない」と言われた途端に、高齢者の希望が叶えられなくなってしまう。病気は時間を問いません。医療の本質は「必要な時に対応する」ことであり、在宅で生活する人については、往診したり、時間外に対応するという医療がなければ支えることができません。医療上の不安が解消できれば、在宅でがんばれる人が相当増えるはずです。


 しかし、こうした医療は、医師にとっては、「魅力がない」と映る。専門医は臓器別診療に特化し、開業しても「病院の専門外来」の延長という形態が少なくありません。医療ニーズと医療提供体制がミスマッチになっている、これが今の構造です。

http://d.hatena.ne.jp/haohao_x/20090604